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日産とプリンスの光と影
(日産の幻影フェアレディS)
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ここに、一枚の写真がある。
ゼッケン17はトヨタ2000GT、そして、その隣りには、いつもと雰囲気の違うフェアレディSP310が……

よーく見て欲しい、フロントとリヤのフェンダーに刻まれたスリットが、ただならぬ雰囲気を醸し出している…。
そう、これが私と現在まで謎のマシンとされる「フェアレディS」との出会いであった。

1966年、それまで鈴鹿で行われていた日本GPが、富士スピードウェイに移された。
当時、一周6キロで30度のバンクを持つ、富士に舞台が移ったことで、マシンのさらなる高速化が期待された。

1966年第三回日本GP決勝でのヒトコマ。予選ではトヨタ2000GTに15秒のアドバンテージをつけてポールシッターになっていた。

3月、富士スピードウェイの開設を記念して、全日本クラブマンレースが行われた。このレースは5月に行われる、第三回日本GPの前哨戦とも言われ、各ワークスから最新鋭のGPマシーンが出場するのでは? という憶測が流れたが、蓋を開けてみれば、最強のワークスであるプリンスは欠場し、唯一、トヨタからトヨタRTX(後のトヨタ1600GT)と、日産からフェアレディSと呼ばれる、謎のマシンが出場した。

レースは、名手 田中健二郎の乗るフェアレディSが有利に駒を進めながらも、結局エンジントラブルで細谷四方洋のドライブする、トヨタRTXに優勝をさらわれてしまった。
しかし、ドラマは始まったばかりだったのだ。

ここで、当時の日産のスポーツカー、GPカーの開発の状況を説明せねばならないだろう。
60年代当初、日産はヤマハと技術提携を行い、次世代スポーツカーの開発を進めていた。
コンセプトは、当時のフェアレディの様なオープンではなく、クローズドボディの超高性能スポーツカーであった。
このマシーンは、第三回日本GPの出場も目指していたが、途中でヤマハとの関係が悪化(一説には日産とプリンスとの合併が要因だとも…)し、日産は独自でマシンの開発を行う事となった。
ボディは、フェアレディ(Zでは無い!)のフレームを使用し、そこにFRPでボディを架装する事になった。
ところが当時の日産にはFRPの技術が無かった為に、木型メーカーであるヨコキに委託したと記憶している。
そのボディスタイルは、一見すると後のS30Zにも通じる、ロングノーズ・ショートデッキの流麗なものであったらしい…(なにせ、日産社内でも、このプロトタイプの写真が残っていないという事なのだ)

一方、先行して開発されていた新型エンジンは、'65年暮れには数基完成し、このプロトタイプボディの載せられて実際に北野 元や高橋国光の手でドライブされ、富士のフルコースを走行していたという。

DOHCの証のふたつの峰と、ツウィンスパークである事が見て取れる

エンジン型式、いやコードネームは「B680X」。
6気筒DOHCで、プラグが一気筒あたり二本のツウィン・プラグ、2ヴァルヴであった。
最高出力190PS/7600RPM、最大トルク19.5kg-m/6400RPM。ちなみにキャブはウエバー三連装であった。

ここで、これまでの過去の経緯から、このエンジンがヤマハ製ではないかと、噂されているが、78×69.7というボア・ストロークからも当時開発されたL20がベースであったと考えるのが妥当だろう。

65年暮れに掛けて開発は着々と進んだが、ここで大きな転機が訪れてしまう。
そう、プリンスと日産との合併が決まったのだ。
ここで第三回日本GPに向けて開発が進んでいた、新型スポーツカーの開発は、「合併する会社同士で争わない」という考えから、中断してしまったのだ。
ここには、また「何も既にプリンスが開発したGX8(S20)が手に入るのだから、お金を掛けて新エンジンを開発する必要は無い…」という判断も働いた事は容易に想像が付く。

しかし、一度作ったモノがどの程度の実力か!? 見てみたくなるのが人情である。
そこで、急遽フェアレディ1600のボディの前半を切断し、ノーズを伸ばし、B680Xを搭載した「フェアレディS」が作られた。

サイドのスリットと、拡大されたトレッド、太いタイヤがタダモノでない雰囲気を出している。

第三回日本GP予選。5月2日は、富士独特の豪雨となり予選は行われた。
ドライバーは北野 元。
彼は、2輪ドライバーとして日本人初のマン島TTレースで5位入賞を果たすなど、高橋国光と共に日産のエース・ドライバーであった。
黒いヘルメットと、コーナリング時に首を傾げる独特のフォームで観衆を魅了させた。

プリンスR380やポルシェ・カレラ6といった、本格的なGPカーを尻目に、なんとポールポジションを獲得してしまうのだ。

豪雨とフェアレディ…後のS30Zでも語られる、「雨に強いフェアレディ」の伝説はここから始まったのかもしれない。

一位:日産フェアレディS 北野 元  2分37秒70
二位:トヨタ2000GT 田村 三夫 2分52秒43

しかし、決勝では、天はフェアレディSには味方してはくれなかった…。
予選とは打って変わって晴天となり、スタートからすでに、ポルシェやプリンスについて行く事ができなかった。

さらに前日、エンジンを換装した際に、燃料系にゴミが侵入し、燃料系のトラブルと、当時の熱ダメ、水ダメ、振動ダメのフルトラの故障で、結果を残す事ができずにレースを終えてしまった。

穏やかな風貌であるが、その走りは…

この後、フェアレディSは、二度と日の目を見ることなく、日産とプリンスの合併の影に消え、闇へと消えてしまった。

B680Xは、実は130セドリックのスポーツヴァージョンとして搭載する予定でもあった。

歴史にIFは禁物だが、日産とプリンスの合併劇が、もう少し遅かったら、GPの決勝が雨であったなら…日産の今は、もっと違った形になっていたかもしれない。



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