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日産の歩み DAT号からDATSUNへ
日本自動車産業の父
「ゴルハム」と「橋本増次郎」
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どれだけの人が日産の歴史を正しく認識しているだろうか?

たまたま自分は、小さい頃から日産が好きで、それが講じて学生時代は、日産の生い立ちから
現代までをレポートしたりした関係で、手元には多くの資料がある。
その資料を活用して、真の日産の姿に少しでも近づきたいと思うのだ。

まずは日産という会社の成り立ちは、トヨタの様に単では無い!という事を知って頂きたい。
日産という会社の創業には、少なくとも三つの会社が関わっていたのだ。

そして、その過程の中で大きな役割を果たした人物が二人いた。
その人物とはアメリカ人・・いや日本人「ゴルハム」と「橋本増次郎」だ。

国産に拘った「快進自動車工場」

左の写真を見ていただきたい。この写真は大正三年に撮られた写真である。
この写真は、明治44年に、橋本増次郎が設立した快進社自動車工場の 第1号の
完成車のシャーシの前での記念撮影されたものである。
左端のひげを蓄えた人物が、創業者の橋本氏らしい。

実はこの快進社自動車工場の設立に関わった(出資者)、田健次郎(D)、
青山禄郎(A)、竹内明太郎(T)の頭文字を取って、製造したクルマを『DAT』号と
呼ぶことになった。

橋本増次郎と快進社のエンジニア達

二気筒、十馬力で三人乗り、最高速度は32km/hとささやかなものだったが
車輪、タイヤ、プラグ、ベアリング以外は全て国産で作られており、まさに
国産車のパイオニアであったと言って良いだろう。




  完成した DAT号 愛らしいデザイン

これに続き快進社では、大正5年、直列4気筒15馬力のDAT41型を完成
するが、まだまだ外国車が幅を利かせている時代、そしてさらに追い討ちを
かけたのが大正12年の関東大震災であった。

関東大震災をキッカケに、一層外国車が増え、大正14年には「合資会社
ダット自動車商会」となって経営規模の大幅な縮小を余儀なくされたのだ。

  やっと見つけたダット号のカタログ


もうひとつの挑戦者「実用自動車製造株式会社」

実はこの頃、国産車の製造を目指していたのは、橋本だけではなかった。
大正8年7月、大阪の久保田鉄工所の久保田権四郎社長の養子「篤次郎」の誕生日を記念して「実用自動車
製造株式会社」を創立した。

この会社にエンジニアとして、アメリカ人の「ウィリアム・ゴルハム」が迎え入れられた。
ゴルハムはもともと日本に航空機産業を興すために来日したのだが、当時の日本の工業力では、とても航空機を
飛ばせるまでは至っておらず、彼は替わりに自動車産業に目を向けた。
しかし自動車産業であっても、日本には充分な技術力が養われておらず、そこで彼は日本独特の人力車に目を
つけた。
なんと彼は人力車に、バイクのハーレーのエンジンを搭載し3輪自動車を作ってしまったのだ!

これが世に言う「ゴルハム式三輪車」である。

この設計特許を買い取ったのが久保田権四郎であった。
ゴルハム式三輪車をベースに、大正十年、日本人技師、後藤敬義とゴルハムとの共同設計で、四輪自動車の
「リラー号」が完成した。

しかし、この会社も外国車の攻勢の波にもまれ、なかなか事業は
上手く進まなかった。
必然的に久保田は、パートナーを求める事となったのだ。

歴史の流れはまた、大きなうねりと共に動き始めたのだ。







   これもレア・アイテム リラー号のカタログ

復活のDAT号・・そしてDATSON誕生。そして・・

大正15年、よいよ、その日を迎える事となった。
「合資会社ダット自動車商会」と「実用自動車製造株式会社」は、ついに手を結ぶ事となった。
日本人の為の国産車作りに燃えた橋本氏と久保田氏が、互いの理念と理想の実現の為に両社を合併し
ここに「ダット自動車製造株式会社」が誕生した。

私は、ここがある意味で日産の種が蒔かれた年だと考えている。
しかし、本当の意味での日産の誕生は今しばらく待たなくてはならなかった。(閑話休題)

会社合併から5年後の昭和6年、新しい会社から生まれたクルマは「DATSON」と名づけられ
た。
当時「ダット自動車製造株式会社」の重役だった橋本の DAT号の子供 という事で名づけられた
のだ。

DATSONの売上は伸びていったが、ここで困った事が起こった。
当時の自動車の購買層は、企業家や権力者が多かった。彼らがDATSONを購入する際、
口々に名前が良くないと言い始めたのだ。
彼らは特に語呂や縁起を重んじるのであった。つまりDATSONの「SON」が 訳意の「息子」
でなく、発音が「損」に聞こえて縁起が悪いというのであった。

せっかく定着しつつある「DATSON」というブランド。しかし、このままでは商売に良い影響を
与えるわけは無い!
同じ響きで、何か良いブランドはないであろうか?日出でる国のクルマ・・・奇しくも「SON」と
「SUN」は一文字違いで聞いた感じも近い・・・。昭和7年3月、ブランド名が「DATSON」から         DATSONのカタログ
「DATSUN」に変更された。
しかし、歴史は水面下でもっと大きな動きを始めていたのだ。


日産ブランド生まれる

先登る事、昭和6年8月。「ダット自動車製造株式会社」は一人の事業家によって、
大半の株が買収されていた。

その人物の名は「鮎川義介」。

ここで「鮎川義介」なる人物像に迫らなくてはならないだろう。
なぜなら、彼の歴史をたどる事が、日産、そして多くの企業と日産の関わりが見えて
くるからだ。

    明治43年頃の戸畑鋳物     「鮎川義介」は山口県出身。東京帝大工科大学卒、そして芝浦製作所(現:東芝)に
                     一介の見習い職工として入社。
若干29歳で戸畑鋳物株式会社を設立。昭和2年、第一次世界大戦後の不況によって、経営の悪化していた、日立銅山の
経営権が鮎川義介に移行。

この日立銅山は、久原房之助之という人物が起こした会社で、その日立銅山で使用する鉱山用の電気機械を修繕する
目的で日立製作所が発足したのであった。
そうです、ここで日産と日立の関係が生まれたのです。

そして鮎川義介は、日立銅山の親会社である、久原鉱業を日本産業鰍ノ改称。

皆さんは、もうお気づきでしょうか?

実はこの「日本産業」という社名の「日」と「産」を取って「日産」というブランドが誕生したのでした。



日産ブランド「DATSUN」ラインオフ

<明治の人力車、大正の自転車、昭和のDATSUN>


昭和8年6月戸畑鋳物株式会社がダット自動車製造株式会社を完全に吸収した。
それに伴い戸畑鋳物自動車部を設立。更に戸畑鋳物と日本産業の共同出資で、自動車部を自動車製造株式会社として
独立させる事となった。

自動車製造株式会社は、日本産業鰍ェ600万円、戸畑鋳物鰍ェ400万円を出資し、資本金1000万円でスタートした。
                                 (その後、戸畑鋳物が撤退、日本産業の資本に一本化された。)

当時の会社概要によると「ダッサン車を年間5000台、シヴォレー及びフォードの部品を製造する事を目的とし・・・」となっ
ていた。
そして、昭和9年の第一回定時株主総会で社名を 「日産自動車」 とする事に決めたのであった。


鮎川は、日産自動者の本社と工場を横浜に置いた。
「ダットサン年間5000台」の目標を達成する為に、日産自動車の本社を置いた
横浜工場の建設には金に糸目をつけなかった。
この工場建設の総指揮をとったのが、あの3輪自動車を作ったゴルハムだった
のである。
主要設備を米国から輸入し、大量生産方式を採用した。

ゴルハムは、自動車の製作に関わる全ての工程(プレス、機械加工、ボディ組立)
を持つ年産5000台の一貫生産の規模の工場を目指した。
−−−−昭和10年4月12日−−−−
横浜工場製ダットサン1号車オフライン   昭和10年4月、日産自動車の横浜工場から量産第1号のダットサンがオフラインされた。

日本自動車産業の父「ゴルハム」と「橋本 増次郎」

ゴルハムは自動車の技術だけでなく、工場の建設そして、その生産技術まで確立させた。
昭和16年ゴルハムは日本に帰化した。帰化したゴルハムは、合波武克人(ごうはむ・かつと)と改名した。
そして終戦直後に取締役工場長、そして専務取締役技師長として“技術のニッサン”の最高峰に立ったのである。

昭和24年、ゴルハムは急病で61歳で世を去ってしまった。
快進社の創設者・橋本増次郎とともに、ゴルハムの名は日本の自動車産業史で忘れてはならないだろう。


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