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激戦レースは終わるまで結果は分からない・・・
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難産!GT−R50勝
1971年12月・・・

突き抜けるような快晴の元、霊峰富士が見守る中、
その激戦が始まった。。。
「富士ツーリスト・トロフィ500マイル」、通称「富士
TT500」が行われたのだ。

午前11時10分

ルマン式スタートによって、色とりどりのカラー・
リングのマシンがコースに突入した。
このレースこそ歴史に残る「日産」対「マツダ」の
死闘になろうとは誰が予測しただろうか?

日産は「GT−Rの50勝」、「ワークス出場30連勝」に王手をかけており、その歴史的瞬間を捉えようと、コース
内に20数台のカメラを用意していた。
さらに、「打倒ロータリー」の為に、ワークスのハードトップGT−R 3台 、その援護の為にプライヴェートとはいえ、
セミワークスともいえる 5台 のGT−Rの 計8台 のGT−Rを送り込んで来た。
さらに、より勝利を確実にするためと、プライヴェートのファミリア・ロータリー・クーペの「駆逐」も狙って、インジェ
クション仕様のブルーバード1800SSSとサニー・クーペまでもが集結した。

一方の「マツダ」陣営だが、カペラ・ロータリーが 2台、10A搭載のサヴァンナが 1台、セミワークスのカペラ・
ロータリーが 1台。そしてプライヴェートのファミリアが数台エントリーした。。

レースは高橋国光のGT−Rがトップで、ついで北野元のGT−Rが二番手と、GT−Rが早くもワンツゥーでストレ
ートを駆け抜けたが、パワーウエイトレシオに勝るロータリー勢が直線の終わりから30度バンクに入る手前で、
次々とGT−Rに牙をむいた!果せるかな最終コーナーを抜け出てきたのは・・・

不屈の王者 北野GT−Rであった!!

続いて砂子GT−R、その後から片山、寺田のカペラがGT−Rを追撃していた。
「高橋が来ない!」日産のピットに悲鳴にも似た声が走った。
優勝の最有力であった「高橋」が、最終コーナーを立ち上がって来ないのだ。これには日産のクルーも、マツダの
クルーも騒然となった・・・
「高橋」は30度バンクを抜けたところで、壮絶なブレーキング合戦の末に、カペラと接触してエスケープゾーンまで
弾き飛ばされていたのだ。

これでGT−R勢の雰囲気が一気に変わってしまったのは言うまでも無かった。
さらにGT−Rには悪夢の様なトラブルや事故が発生した。
まずは北野のGT−Rにクラッチトラブルが発生、ピットインを余儀なくされた。素早いピットワークでクラッチの修理
を終えコースに復帰したが、復帰早々に、今度はミッションが入らないトラブルが起き、再度のピットインとなり完全
に優勝圏外へ去って行ってしまった・・・
砂子GT−Rも、他車のスピンに巻き込まれてフロントサスにダメージを受けてしまった。。。

30周に近づいた時、順位は片山、寺田、その次にプライヴェートGT−Rの「久保田」、そして4位には「サヴァンナ」
が入った。

この段階で、GT−Rの50勝の夢は絶たれた・・・と誰もが思ったに違いない。しかしレースは終わるまで結果が分
からないのが相場である。
50勝という目標・・・いや「勝利」という事にGT−Rは「貪欲」であった。

たとえトラブルで順位が落ちようが、プライヴェートであろうが、GT−Rに日産のパイロット達は、鞭打つのを止めて
は無かったのである。

その不屈の闘志に、今度はロータリー勢の崩壊が始まった!!

60周を超えたところで寺田カペラが、直線では離されても、30度バンクや各コーナーで、しぶとく追従され追い回
される、GT−Rの異常ともいえる気迫のこもった追撃に、ついに根を上げてしまったのだ。
ハードトップに昇華したGT−Rの足回りと、日産パイロットのドライヴィングテクニックは芸術の域に達していたのだ。
ローターリー勢は、このカペラの戦線離脱で異様な雰囲気に呑まれつつあったのだ。

80周目には片山のカペラが、通常では考えられないオイルポンプの破損で、リタイヤを余儀なくされて、ついにカペ
ラ勢は全滅に追い込まれたのだ。

自動的に順位は、後方支援であった、サイドポートで10Aロータリーという戦力不足のサヴァンナがトップに立ち、
それをプライヴェートの 久保田GT−R が追う・・という一騎打ちの様相を呈してきた。

もはやこうなると日産、マツダとも総力戦である。

両社とも、全ての力をこの二台に向けたが、この段階でのサヴァンナの
戦力不足は如何ともしがたい事実であった。
パワーに勝る久保田GT−Rは、90周をすぎた時点で、ついにサヴァン
ナを抜いてトップに立ったのだ。

今まさに奇跡とも言える大逆転を目の当たりにして、観客は総立ちと
なった。

どんな逆境に追い込まれても、決して戦いを諦めること無い久保田GT
−Rの姿に、初めてポルシェを抜いてトップに立ったスカイラインS54B
の姿をダブらせてしまったのかもしれない・・







残り10周を切っても、久保田GT−Rは一周2分8秒という
もはやR380と同等かそれを超える驚異のペースで美しい
DOHCサウンドを奏でていた。

一方サヴァンナも、ロータリー特有の甲高い高周波のマシン
ノイズで周回を重ねていたが、もはやその甲高いサウンドは
悲痛な叫びにも聞えて来ていた。。











しかし「勝利の女神」とは最後まで非情であった。。。

残り4周というところで、再び信じられない光景を目の当た
りにしようとは誰が想像しただろうか・・・
なんと久保田GT−Rが、フロントホイールを引きずってピ
ットインしたのだ。
余りにも過酷なレースが、GT−Rのフロントサスにもスト
レスを与え、ついに耐え切れずに壊れてしまったのだ・・

ゴールまであと四周というラップで、ついに王者GT−Rは
ピットにうずくまり二度とコースに戻る事は無かった。。

不動となったGT−Rを横目に、カーナンバー「15」のサ
ヴァンナは死闘を制したのであった。
それはGT−Rにとって初めての敗北でもあった。。

ここに新たに新しいヒーローが誕生した。

しかし、GT−Rも不屈の王者である。'72年3月、GT−Rは不死鳥の様にサーキットを舞うことになるのだった。。

その事を述べる前に、次は、「マツダ」が如何にして「サイドポート」の不利を克服したかや、GT−Rのハードップ導入
について、少し時間を置いて述べてみたい。。


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