有終 幸福と不幸
何がこの二車の運命を変えたのか?
お願い:画像解説の文字が画像の下になるようにウインドウの幅を調整下さい。
勝負に負けてレースに勝った
次々と襲い掛かる「ロータリー」の挑戦にも、持てる力を振り絞って闘ってきた KPGC10 GT−R にも、
よいよ終焉の時がやって来ようとしていた。
1972年9月、スカイラインは4代目となる「ケンメリ」スカイラインをリリースした。
もはやそこには、力強さとか究極の早さ・・といった言葉はどこにも見当たらなかった。。。
なにより、一回り大きくなったボディが、レースカーにとって決定的に不利であることは、誰の目からみて
も明らかだった。。
それでも6月の北野操るGT−Rの気迫のこもった走りに、
多くのファンが
「次」
を期待したのは無理からぬ事であった。
しかしその事が、逆にマツダの闘争心に火をつけてしまった
事は、なんとも皮肉な事では無かったのだろうか。
10月10日 ついに、その日がやって来た。
北野GT−Rとの敗北を受けて、再編成された「マツダ・
ロータリー」勢が、GT−Rのホームグランドである、富士6キロのフルコースに集結した!!
「マツダ」は二台のワークスGT−Rに対して、なんと「武智」、「従野」、「増田」、「岡本」の五台と、マツダ
オート東京から「寺田陽二郎」の六台がエントリーしたのだ。
そんな「マツダ ロータリー」に対して、「日産」はもはや戦力の向上は見込めないと誰もが思ったGT−Rに
対して、S20エンジンのヘッド周りの改造で数馬力、そして、この日の為にブリヂストンに特製の「スーパー
スリックタイヤ」を開発させてGT−Rに搭載させた!
さらに、「スーパースリックタイヤ」になり、幅が広がったのをフォローする為に、「オーヴァーフェンダー」の
見直しがされたが、単純に幅を広げるのではなく、短時間に実験を繰返し、「空気抵抗の少ない形状を
見つけ、GT−Rに取り付けた。
左が従来型、右が新型。滑らかに大きく幅広くなっているのが分かる
フロントは従来と違って、フロントスポイラーと滑らかに繋がる形状とし、フロント&リヤとも、上下方向には
滑らかにボディに繋げ、先端と後端はできるだけ長く伸ばす事により、空気の流れをスムーズにしエンジン
の馬力アップと共に、空気の流れまでも味方に付け、「ロータリー」の挑戦を受けて立つ事になったのだった。
リヤも同様である。滑らかに大きくなっている事が良く分かるアングルだ。
最後となろうGT−Rなのに、こうまで日産が・・・
いや実は「日産」という会社が、GT−Rの開発に邁進したというより、もうこの頃はレースに携わっていた関係
者の手でGT−Rの「ポテンシャルアップ」が図られていたのだ。。。
それは「公害対策」により、それまでレースカーの開発に携わっていた部門の全てが「公害対策」に注力されて
しまい「レース」部門の開発まで手が回らなくなっていたからだ。
「レース」に関わっていた技術者達は、「公害対策」という名の下でGT−Rが遅くなった・・・と言われる事だけは、
プライドが許せない、いや許せなかったのである。
やれる事は自分達でしようと、半ば手弁当で、ある時は旋盤を回し、ある時は慣れない手つきではあったが、
S20エンジンのヴァルブ・シムの調整を夜通し続けたのであった。
彼らにとってGT−Rは、「誇り」でもあったし、「彼らの分身」以外の他ならなかったからだ。
そんな技術者達の姿を見ていた黒澤は、最後のレースで再びGT−Rを蘇らせようと静かに闘志を燃やしたのは
当然の成り行きであっただろう。
予選が始まった!
黒澤に託されたGT−Rは、ロータリー勢と激しくヴァトルを繰り返した。
馬力が上がったとはいえ、パワーウェイトレシオの劣るGT−Rをストレートでは、時には周回遅れの「ロータリー」
勢の後ろに回り、可能な限りのスリップストリームを駆使してR380でも達成に時間の掛かった「2分」の壁を破り
「1分59秒70」
を記録!
これは、あの富士のコースを平均180Km/h以上で駆け抜けた事になるのだから、ツーリングカーとして、いか
に驚異的なタイムかが伺えるだろう。
しかし、レースの世界は非情である。
「ロータリー」勢もチームプレーを駆使して、やはりロータリー勢同士でスリップストリームを使い、従野サヴァンナ
が黒澤をさらに上回る
「1分59秒35」
をマークしてポールポジションを奪取したのであった。
予選の結果を見て、だれもが、決勝は「ロータリー・
オンパレード」のレースになるだろうと予測した。
決勝
ざわめきにも似た、異常な雰囲気の中、シグナルが「青」
に変わった。
「ロータリー」勢の加速は、GT−Rをはるかに凌いでいた。
スタートから黒澤は数台のロータリーに先行を許し、バンク
に突入して行った!
しかし、生まれながらの闘う事を宿命としたGT−Rという
戦士の血筋と、黒澤の執念にも似た気迫で、ロータリー勢
に対して一向にひるむ事無く戦いに挑んだ。
もはやGT−Rがフロントを取る事は難しくなってしまった・・
裏富士と呼ばれる、テクニカルなコーナーの続くコースで、黒澤は何と、次々とロータリー勢をパスして、集団の
トップを行く二台のロータリー勢の背後に迫ってきていたのだ。
「マツダ」はこの二台を使って、お互いにスリップストリームを使い、ストレートでGT−Rを引き離す作戦であった
が、最終コーナーでGT−Rはさらに一台抜き去り、なんと2位までに上り詰めていたのだ。
これでは「マツダ」が当初描いていた、二台のロータリーが併走して・・・という作戦は使えなくなってしまった!!。
黒澤の激走に「ロータリー」勢は歩調を狂わされ、一周目でトップに立っていた「武智」がスピン!さらに後続車に
激突され大きく順位を下げたが、素早くピットに入り、修理を施し・・・しかし、直にはピットアウトしなかったのだ。
彼は先頭集団が来るのを待ち、絶妙なタイミングで黒澤の前に立ちはだかったのだ。
「武智」に代わって先頭を走るのは「片山サヴァンナ」。
しかし大方の予想を覆し、その背後には黒沢のGT−Rがぴったり貼り付き、機を狙っていたのだ。
「武智」は「片山」を援護する為に、順位よりチームプレーに徹する事にしたのであった。
ついに「ロータリー」勢は、全戦力を集結し、たった一台のGT−Rに対抗する作戦に打って出てきたのだ。
しかし、異常なまでの執念で追い回されるロータリー勢に、あせりと緊張が積み重なってゆき、次々と尋常では
無いトラブルが続発して行くのであったのだった。
最初に、先頭の「片山サヴァンナ」がエンジントラブルで、コース上にストップ!
序盤戦から「ロータリー」勢の一角が崩れ去ってしまった。
ピリピリとした緊張と、激しくぶつかり合うバトルで、黒澤もまた「武智」と接触!コースのグリーンベルトまで押し
出されてしまったが、最小限のロスタイムで黒澤はGT−Rをコースに蘇らせた。
黒澤がコースアウトの隙に、先行した「従野」、「増田」の「ロータリー」勢を、黒澤は激しく追い始めた。
一瞬のスキも無い、激しい戦いが繰り広げられた。
たった一台のGT−Rの為に、数台の「ロータリー」勢が非情にも襲い掛かっていたのに、まったくそれ動じる事
無く黒澤GT−Rは激しくヴァトルを続けた。
4周目、ついに黒澤はトップに躍り出た!
ヘアピンで黒澤は全ての「ロータリー」勢を抜き去り、トップに立ったのだ!
ストレート!
黒澤は再び「従野」に抜かされてしまったが、ストレートに舞う全てのクルマ駆使し、背後に喰らい付きスリップスト
リームを駆使し、それ以上順位を下げる事なく、「従野」の背後に不気味に貼りついた。
6周目、その「従野」のリヤタイヤがバーストし、勢いでクラッシュしてしまった!
10周に至る前に「マツダ」ワークスは、たった一台のGT−Rの為に壊滅的なダメージを被ってしまった。
もはや、戦力的に黒澤GT−Rに対極できるのは「増田」、「武智」の二台となってしまったのだ!
ストレートに入ると、黒沢GT−Rの必要なスリップストリームを嫌がって「増田」が「武智」がコース幅いっぱいに
使って右に左に逃げまわっていた。
それでもGT−Rは、裏富士に入ると「ロータリー」を抜き去り先頭を奪い、再びストレートでは・・・という、これまで
何回も繰り返されてきたヴァトルを繰り広げていた。
しかし・・・・・・
それは、残り6周という所で起こってしまった。
激しい競り合いを繰り返してきた「武智」と「黒澤GT−R」がコーナーで激突、ついにGT−Rはコースに戻る
事は無かったのであった。
これが、俗に言う72年GT−R最終レースでの
「勝負には負けてレースには勝った」
といわれる戦いの一部始終である。
このレースの後、急遽襲ってきた「オイルショック」が、またGT−Rに重くのしかかって来た。
翌73年1月には「ケンメリ」にもGT−Rが追加されたが、それは「余ったS20エンジンを処分する為と、GT−R
のファンに向けた日産の鎮魂歌」だったとも言われている。
「ケンメリGT−R」総生産台数197台・・・
実際には、もっと多く造られたのだが、一般的にはこの200余しか最後のGT−Rは存在していないと言われて
いる。
一方の「マツダ」は、「ロータリー」の特性を生かし、公害対策には生き残ったが、この「オイルショック」の「燃費」
の問題で苦境に立たされたが、レース活動は続けた。
「サヴァンナ」は100勝をマークした。
しかし、そこに「賞賛」の声は聞かれる事は無かった。。。
なぜなら「サヴァンナ」には、もはやGT−Rの様な強力なライヴァルが存在せず、一人で勝ち続けた様なモノ
だったからだ。
「GT−R」は「ロータリー」に苦しんだ。
そして、「50勝」・・・生涯記録はワークスが去った後も、プライヴェート達が頑張り「58勝」を上げ、後世まで、
語り続けられる事になった。
「サヴァンナ」は、「GT−R」より多くの勝ち数を上げながら、人々の記憶から忘れ去られてしまった。。。
これを歴史の悲劇としか、言い様が無いのではなかろうか。。。
そういった意味では「GT−R」は「幸福」であったと言えよう。
「サヴァンナ」は強すぎるが故に「不幸」であったに違いない。
長々と続いた、この「ロータリーとGT−R」の戦い記録だが、そこに日本の自動車産業の縮図と、人の運命にも
似た「幸運」と「不幸」の狭間を垣間見たと私は思うのだが、皆さんは如何感じただろうか?
少なくとも、今の日本でも有り得ない様な、劇的で刺激的なレースが30年も前にすでに繰り返されていた事だけ
は、ここを訪れた皆さんだけには胸に刻んで欲しいのだ。
最後に、本当に長い間、このシリーズを応援して、時には励ましてくれた皆さんに心からお礼を述べたい。
「ありがとう」・・・と。
日産・DATSUNの戦士達TOP
復活!ブルーバードへ
SEO
掲示板
[PR]
爆速!無料ブログ
無料ホームページ開設
無料ライブ放送