モンテカルロを激走!
240Zとラウノアルトーネン
お願い:画像解説の文字が画像の下になるようにウインドウの幅を調整下さい。
FRでモンテを闘った240Z
以前、流麗で美しいツゥーシーター・クウペの240Zがラリーでも活躍した事をブログしたが・・・
氷雪 240Zモンテで闘う
⇒
http://carlife.carview.co.jp/User.asp?UserDiaryID=201397
その大きな立役者が
ラウノ・アルトーネン
だ。
その前に日産のモンテでの戦績だが、まず最初に参加したのがブルーバード410であった。
この頃はまったく手探りの状態で、ドライヴァーも南アフリカ出身で大した結果は残す事は出来なかった。
次にトライしたのがフェアレデーSR311で、オープンでFRというまったくモンテでは不利な条件を克服して
総合9位
という
輝かしい成績を残したが・・・
オープンでFR・・・勝ち目がないと言われても 9位 入賞を勝ち取った SR311
そこで起用されたのが、なんと当時無名の新人だった
ハンヌ・ミッコラ
だったのだ!
彼はウインターラリーの装備や闘い方をDATSUNに伝授し、さらに自らもDATSUNでの実績を糧に、一流トップドライヴァー
の道をばく進するのであった。
そのDATSUNが次に開発したマシーンが240Zであった。
次に問題となったのがドライヴァーで、よりによってDATSUNはクーパーSで優勝経験のある超一流のラリードライヴァー
ラウノ・アルトーネン
に白羽の矢を立てたのでった。
初めて彼と会った時、当時のDATSUNのボスであった難波はラウノに冷たく言い放たれてしまった。
勝てるマシーンでなければ乗りたくない。それでも乗れというならそれ相当の報酬をもらいたい・・・
難波は、モンテが終わったばかりの山岳コースで、ラウノに全開テストを行う事を申し入れた。
白銀のモンテのコースに、真紅の美しいツゥーシーター・クウペが名手の手によって放たれた・・・
そこにはライヴァルは居なかった、ただ一台の美しいクウペとL型エンヂンのメカニカルサウンドがアルプスの山々に咆哮し
続けていた。
240Zから降りたラウノは難波に言った。
このマシンなら優勝は無理だが、良いところまで必ずゆける・・・
そう言うと彼は、今度はDATSUNの提示した契約金より遥かに安いマネーで契約してくれたのだ。
果たせるかな、彼の言うとおり240Zはアルプスの難コースを果敢に攻め71年には、モンテ史上初めて重いプロペラシャフトの
付いたFRで
総合5位
に入賞し、さらに翌72年には、なんと
総合3位
にまで昇り詰めたのだ。
しかし、ラウノはDATSUNにとって大変な男でもあった事は間違いの無い事実だったようだ。
以前企画室ネコに、難波が寄せた寄稿に
ラウノ・アルトーネン
の事が書かれていた。
彼は我々サーヴィスクルー泣かせの男でもある。マシン・セッティングは5mm刻みで注文を付けて来る。
例えば、シートをもう25mmオフセットしてくれなど、まるでコンピュータで計算した様な事を言い出す。そしてそれは間違った
事は無い。
またある時は、ステアリング・ホイールの皮巻きの縫い糸が指に引っ掛かるから縫い直せと・・・
(中略)
240Zはモンテでの高速ラリーに備えて、Gノーズ付きを持ち込んだが、アルトーネンはそれが気に入らず150mmカットして
くれと言い出す。
それでGノーズ無しにしたのだが、まったく小うるさい男だと正直思ったものだ。
ところが彼の走りっぷりを見て、私はグウの音も出なかった。コーナーをノーズの先端で雪を削る様に、まさにギリギリのライン
を取って抜けて行くのである・・・
基本的にアンダーステアの240Zを、アルトーネンはステアリングとサイドブレーキを駆使して、常にブレーキング・オーヴァー
ステアに持って行き、そのためにステアリングのフィーリングが大事で、さらにそうして真横になりながらコーナーを駈けるには、
長いノーズがジャマだった事が後から分かった・・という事だったのだ。
アルトーネンとDATSUNとの出合い・・・
それから随分と長い二人三脚となるのだが、彼がDATSUNに与えた財産は図り知る事が出来ないモノだ。
ジャン・トッド(左)と名手 ラウノアルトーネン
現在も彼は欧州で、BMWなどのインストラクターとして第一線で活躍中である。
あっ!そうそう、モンテでのDATSUNの活躍の陰には、もうひとつ驚くべき事実が隠されている。
72年のモンテでのラウノ・アルトーネンのコドライヴァーを勤めたのは・・・
ジャン・トッド
であった。
この名を聞いてピンっときたら、貴方はかなりのカーマニアを自負してよいだろう。
日産・DATSUNの戦士達TOP
復活!ブルーバードへ
SEO
掲示板
[PR]
爆速!無料ブログ
無料ホームページ開設
無料ライブ放送